Sakura Hidemaru’s blog

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『サイダーのように言葉が湧き上がる』が青春邦画の正統後継者だった件

※ネタバレあり

 

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世の中大半を占める小市民の、しょうもない人生の中にもある、ぬぐい切れない執着や情念。邦画を見る時はそういう表現を見出したくなる癖がある。その点でこの映画は青春邦画の今最も正当な後継者だと感じた。

 

公向けの前評判

『サイダーのように言葉が湧き上がる』の前評判を要約すると、

自分はストーリーには全く興味が無くて、主に作曲人の名前に惹かれて音楽とポップアートだけを目当てに見に行った。

が、予想に反して、トータルとしてかなり映画力の高い作品だったと感じる。

 

 

しょうもない内容と尊い視聴感

ストーリーも題材も本当にしょうもない映画だったと思う。この映画を好きだと言い張る人をかき集めても、「ストーリーが刺激的で最高だった!」と評する人はほぼいないか、これまでの人生でフィクションにほとんど触れたことの無い子供くらいだと思う。

今ストーリーを思い出してみても、

  • 主人公とヒロインの出会いは「地元のショッピングモール」
  • 主人公とヒロインを近づける活動(冒険)は「バイト先のデイサービスの老人が失くしたレコード探し」
  • 本作最重要のマクガフィンである老人のレコードは大した苦労もなく「冷蔵庫の裏」から見つかる(しかも次のシーンには割れる。悲劇性も特にない流れで)
  • 主人公とヒロインを引き離す理由(悲劇)は「主人公の引っ越し」

舞台選びもストーリー運びも、夏休みの作文並みのしょうもなさだが、これは制作陣の挑戦状だと受け取った(←)。「しょうもないストーリーと題材だけで、どこまで邦画の本質的魅力を引き出せるかの挑戦」をフライングドッグは自社の10周年記念でやろうとしていると思うと、男気がありすぎる。そしてそれは成功していたと思う。

 

しょうもない人生の中のささやかな輝きを描くためには、庶民的なリアリティに接近することが大切で、この映画は現代日本のリアルなしょうもなさを結構正確にとらえていたと思う。

 

ネット・SNS全盛の時代で、主人公もヒロインもSNSをメインに交流し、スマイルちゃんのネット配信は盛り上がったりしているが、所詮リアルの舞台は地元のショッピングモールで、ショッピングモールにはデイサービスがあり、子供から老人まで詰め込まれた舞台は小市民の完結した人生を象徴している。映画序盤で老人たちがモールを徘徊してせっせと俳句を作るシーンは哀愁を誘うものがあった。老いて施設にぶち込まれた老人は17文字の制約の中でポエムを書くぐらいしか人生を主張する術がないのかと。自分もいつかはこうなるのかと。そういう悲しみみたいなものがあった。老人が徘徊し、赤ちゃんレースが行われ、地元最大?の夏祭りも行われるショッピングモール。フジヤマ爺の夢が詰まったレコードプレス工場を潰した跡地に立った建造物の中で、人々の暮らしが最初から最後まで完結している様子は、小市民の人生の上限みたいなものを感じさせる。

そういえば以前、和歌山を旅行した時に見たモールで似た様な感覚を抱いたことがある。そのモールも、スーパーを少し大きくした程度の広さの中に、食料品店、ベビー用品店、旅行代理店、結婚相談所が同居していて、地方の人生の天井の低さを感じてモヤモヤしたものだ。

でも、そんな人口の箱の中に閉じた小市民の生活の中にも、一定の執着や情念があり、それが個人のかけがえのなさを生んでいるのだと、この映画は主張していると思うし、実際そうなのだと自分も思いたい。そういう意味で、小市民的な希望を描いたこの映画は、小津映画や山田尚子のアニメ映画に連なる、正当な邦画の後継者だと思う。

そういえばこの映画の視聴後の感覚は『たまこラブストーリー』に凄く似ている。

 

もう一人の主人公がラスト30分で登場する件について

もう一人の主人公と言うのが、フジヤマレコードのおじいちゃんの事なんだが、ヤマザクラのレコードが盆踊りで流れだしたシーンのカタルシスが素晴らしい。

まあ実際の主人公はチェリー君で、フジヤマ爺の回想が入るのも短時間なのだが、出っ歯の恋人とレコードを鍵に、チェリー君と爺の人生がクロスするあの一瞬を大貫妙子の歌で刺激することによって、爺の青春からチェリーの青春へを脈々と続く小市民的な人生の妙味が鮮やかにあふれ出して強いカタルシスを生んでいたと思う。

あのシーンの勢いだけに惑わされていたら、僕はあの映画を大貫妙子の壮大なMVだと勘違いしていたかもしれない。『秒速5センチメートル』が山崎まさよしの壮大なMVだった件を思い出す。

  

しかし、『サイダーのように言葉が湧き上がる』が「大貫妙子 * 老人のおもひで」一点突破の飛び道具映画だったのかと言うと、そういうわけでも無くて、そこに至るまでの夏の日々を、ポップな動画とアンビエントな劇伴で丁寧に積み重ねていく、邦画としてのトータル力の高さが潜んでいる気がする。そうでないと、この映画が長く尾を引いて心に引っかかる現象が腑に落ちない。

 

 

 

余談:この映画のアートスタイル(?)

映画.comとかYahoo映画を見ていると、この映画を褒めている層の特に多い意見として、「わたせせいぞう鈴木英人のようなアートスタイルが新鮮」というものがあった。「最近の実写並みのアニメ映像とは真逆を行く独自性」みたいな表現もあった。

この映画の価値は↑で書いたような邦画としての普遍性だと信じてるマンの僕としては個人的にはちょっと違和感があった。